山路を登りながら

 立秋が過ぎ、お盆も終ったのに連日の猛暑、真夏日。そんな今朝、テレビの天気予報に〝秋雨前線〟という言葉が出てきた。暦の上での秋は来ても季節は夏。そんな中で天気の権威が〝秋雨前線〟と言うとようやく、確かに秋は来つつあるのだなぁと思う。
 そこで思い立って、帽子を被り、ペットボトルとタオルをズボンのうしろポケットに入れ、散歩に出る。通常、私の散歩道は二つあり、一つには立花山登山口コース、もう一つには三ヶ月山登山口コースがある。今日は三ヶ月山登山口コースの方面に向かう。
 登山口に来ると、久しぶりに登ってみるか。行ける所まで行って、無理なら引っ返してくればよい、と登山道に入る。伐採された木の枝を拾い杖にする。杉に覆われた山の空気は思いのほかひんやりとしている。夏の朝も10時過ぎとなると登る人もほとんどいない。時折聴える小鳥の鳴き声のほかに音はしない。静かである。

 大正生まれで戦時中、逮捕拘束され、終戦直後に獄死した哲学者の三木清は、西田幾太郎、ハイデガーに師事し、留学中はパスカルを研究した人という。その彼の著作「人生論ノート」には、「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである」とある。「山」とは一人でいる状態、「街」とは大勢の人の間にいる状態でしょう。大勢の人と人との間に生きている私たちを現代人もまた「孤独は山になく、街にある」というこの句に心が惹かれるのはなぜなのでしょうか。
 そんなことが頭に浮かんでくるなか、径は少し階段状の急坂になった。その時、思い浮かんだのは、夏目漱石「草枕」の冒頭である。「山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。そうして今の世間は、街は「住みにくい」し、「孤独」を感じるだけでなく、「生きにくさ」を覚える所となっていると識者は言っている。このことも現代人の多くが首肯(うなづ)くところではなかろうか。樹々は立花山・三ヶ月山の特徴を示す楠の巨木、他にスダジイ、タブ等が深い樹林帯をを形成している。それらの頭上に青空が見え隠れする径をゆっくりと歩を進める。足もとには木漏れ日が踊る。絵になる小径である。こんな中でも、人は、いえ私は「とかく人の世は住みにくい」」ことを思い出し、ああだ・こうだ、ああでもない・こうでもない等々思い、考え、最早小鳥の声も、風の音も聴こえないばかりか、頭の中は思い煩いの騒音が吹き荒んでいる。
 パスカルは「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である」と書いた。その意味は、自然の中における存在としての人間の弱さと、思考する存在としての人間の偉大さを語ったものだと言われる。
 東京、JR上野公園口をでると右手に、20世紀建築界の巨匠ル・コルビュジエの設計になる、ピロティに支えられた軽やかな佇まいの国立西洋美術館が見えてくる。その正面にはル・コルビュジエに師事した前川國男設計(大濠公園の美術館も設計)による東京文化会館が重厚な姿で向かい合っている。コルビュジエの西洋美術館の前庭にはロダンの「考える人」像があり、向かい合った所にはダンテの「神曲」地獄篇にある地獄への入口の門を彫刻したロダンの大作「地獄門」がある。その門の最上部から「考える人」が下を、地獄に落ちる人々を見て考えている。何を考えているのだろうか。ロダンは何を考えている人を彫ったのだろうか。(因みに前庭は自由に出入りでき、ピロティの下でも休めます)。
 考えることは人間の偉大さ・特性を表わしているかもしれないが…。私の中学時代の友人の父親は、マージャンを教えてくれながら〝○○下手な考え休むに似たり〟といつも揶揄した。まことにそうですが、でもなぜか考えてしまうのです。考えるというより思い煩っていると言った方が適切かもしれません。
 ところで英語で〝考える、思う〟Thinkは〝感謝する、ありがとう〟Thankと語源を同じくします。iとaの違いですからAIならずとも誰でも分かることかもしれません。でもAIとちがい人間はいろんなことを考え、これは普通でないこと、有り難いことだと気づくと〝ありがとうございます〟と感謝します。数十年前、日曜日の夕方のこども向けテレビ番組で、どのような一日であっても、一つでも〝よいこと〟を探し、「ありがとう」と言う「少女ポリアンナ」のアニメがありました。一日をふり返り、よいことを思い出し〝ありがとう〟と言うポリアンナは多分、多くの子どもたちの心に残っていることでしょう。
 ところで聖書に「神は人の心に永遠への思いを与えられた」(コヘレトの言葉3:11)という言葉があります。人は永遠を思うように創造されたのです。永遠を思うとは永遠なる方を思うこと、即ち神を思うことにつながります。ゴーキャンは病気と孤独の中に、タヒチ島で、大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きました。この題名は永遠を、それゆえ神を思う人間が等しく抱く思いでしょう。私たちも来し方をふり返り、今日を生きながら、未来を思うなかにポリアンナのようにイエス・キリストの神を想い、神に感謝する者でありたいと思いました。

 上空が一気に開けると、そこは草原に岩が点在する山頂である。頂上からは360度の眺望が広がる。と同時に、下の方から車の音などの騒音も届き、これまでの静寂が破られる。
 私は何度かエジプト・シナイ半島中央部にあるシナイ山に登った。ここはモーセが十戒を授かった山と言われる。主は雷鳴と稲光と厚い雲に包まれた全山が激しくて震える中に言葉(十戒)を告げられたとある(出エジプト19~20章)。またエリヤは神の山ホレブ(シナイ山と同一視される)で、激しい大風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられなかった主のかすかにささやくお声をきいたのでした(Ⅰ列王記19章)。現在のシナイ山は朝日を見るために大勢の人が登る。そのため日の出前後の山頂は本当に騒がしい。それより一時(いっとき)すると、人は皆 下山し、山頂は静寂に包まれる。私には日の出の感動の騒々しさの中にではなく、人が居なくなった静寂の中に、主はおられるように感じられた。
 照りつける太陽の日差しに追われるように下山の途につく。木陰に入るとほっとする。涼しさも感じる。ふと足元を見ると、石が光っている。登山する人々に踏まれ、その靴で磨かれたのである。次に気がついたのは樹の根っこも皮がむけてつるつるになり、やはり光っている。これも人々の足が滑らないように、根が支えたためである。山麓近く杉林に来た。すると道の脇の杉の木肌が少し赤っぽくみえる。普通、杉の幹は茶色の木肌の上に薄い苔が生え、少し黒ずんで見える。なぜ赤っぽく見えるのだろうか。それは急な下り坂で、下山者が杉に手を掛けて支えられながら下りて行くからである。石にしろ、根っこにしろ、木肌にしろみんな登山者のために、自分を差し出しているように思えた。だから美しく照り輝いているのだろうか。自分のことを思って、恥ずかしくなった。
 登山口まで下ってきた。お世話になった杉の枝を元あった所に戻し、照り返しの強い舗装道路を黙々と歩いて家に着いた。