週日の教会にて「小さなこどもたち」
主日に小さなこどもたちの声が聞こえると何かほっとする。ずっと以前はこの教会堂にも大勢のこどもたちの声が響き渡っていたこともあった。しかし、少子化やさまざまな理由で、今はこの教会だけでなく、どこの教会も、こどもの数は少なくなっていると聞く。こどもは時には礼拝中に声を上げたり、物音を立てたりする。親御さんは気を遣われることもあるだろうと思う。礼拝の邪魔になると案じられることもあるかもしれない。
礼拝堂の後方に母子室がある。そこで親御さんがこどもに本を読んであげたり、授乳されることもあった。
また二階ホールには白板がある。こどもたちが白板に絵を描いたり、紙にぬり絵をしたりすることもある。そうしたこどもたちの振る舞いを誰かが咎めたりしたことを見たことがない。むしろ本を読んでやったり、白板の絵や文字を消してやったり、一緒に積木であそんでやったりしている。ほほえましい風景です。
聖書の中にはこどもたちとイエスさまとのほほえましい様子が次のように描かれています。
イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。
弟子たちはこの人々を叱った。
イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。
「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。
よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」
そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。
マルコ福音書10章13~16節/照同9章33~37節
弟子たちは御多忙でお疲れのイエスさまを思い、こどもたちを叱ったのでしょうか。しかし、あのイエスさまがその弟子たちを憤られました。そして、「こどもたちを私の所に来させなさい。」とおっしゃり「子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福されました。」
私はこの物語り(出来事)は大好きです。ほっとします。
さらにこの物語りを想像します。そして、イエスさまに抱き寄せられたこどもたちは、その汚れた姿のまま、鼻水やよだれのついた顔や手を、イエスさまの服にこすりつけながら、イエスさまから祝福のお祈りを頂いている姿を想います。そして、この小さな子どもたちのように小さな者・罪深い者である私もイエスさまに招かれ、ありのままの自分の姿で、イエスさまのみもとに行きたいと思います。そのときイエスさまは私を抱きせ、手を置いて祝福して下さり、神の国・永遠の命をお与えくださることでしょう。
こうして私はそんな教会の普段の歩みの中で、イエスさまろのお姿を垣間見させていただき、心安まることを経験しています。