週日の教会にて「お手伝いの人たち」
久しぶりに、週日に教会に行った。夏草も刈られ、ぶどうの房には白い袋が被せてあった。秋の豊かな実を想像した。
納骨堂に行った。内はきれいに掃除が行き届き、お花も置かれていた。だれかがいつも心に掛けてふさわしくととのえていて下さるのだと思った。またいつも主日の礼拝に出席すると、会堂は清掃が行き届き、堂内は整えられ、講壇に、また堂内左右の棚にも花が活けられている。聖書・讃美歌も週報も受付に置かれている。
私たちが、また他人が見ていないところで、人の目を意識することなく、強いられてではなく、自分からご奉仕くださっている方々がいる。教会とはそんな所なのです、と教えられ、こころ豊かな気持ちにされた。
そう言えば聖書に不思議な言葉がある。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。
それがどこから来たのか、知らなかったので
―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―
ヨハネの福音書二章九節
ここはイエス様が行われた最初のしるし(奇跡)を記しています。イエス様はカナの村での結婚披露宴に招かれました。ぶどう酒がなくなったとき、空の水がめに水を満たすよう、次に宴会の世話役のところに持っていきなさい、と手伝いの人に言われたのでした。その水はよいぶどう酒に成っていたのでした。(ヨハネ2章1~11)。
手伝いの人たちが水を汲み、かめを運んだ奉仕を、参列者も宴の世話役も、さらには新郎新婦も知らなかったことでしょう。しかし、お手伝いの人々は自分たちのしたことは誰も見ていず、知られてなくてもイエスさまのなさったことは知っていました。彼らは、イエスさまに、命ぜられたことをしただけでした。そして彼らにはそれだけで十分であったことでしょう。
いつかルーブル美術館に行くことがあったら、p・ヴェロネーゼ作の約7メートル×10メートルの「カナの婚礼」の中にお手伝いの人を見つけたい、と思いました。
そんな教会に集えていることが嬉しくなりました。