教会へのお招き

<目次>
1.「私が教会の門を叩いたわけ - 人生の嵐の中で」   2.「自分を生きるために」   3.「生きる意味を求めて」
4.「家庭と学校と教会がともに!」   5.「いのち与えることば」
    6.「今だから…、家族を考えたい」


お招き 1 「私が教会の門を叩いたわけ - 人生の嵐の中で」・・・・目次へ

人生の嵐

 とにかく参った。当時五十一歳の私の人生に一度に色々な問題が降りかかってきたのです。会社は倒産寸前で、癌の宣告を受け不安がつのるばかり。その上、我が家の希望の東大生の長男が、大学院進学の予定を放棄して、卒業後、牧師になると言って神学校に行ってしまったのです。彼は二年ほど前にクリスチャンになって色々考えていたようですが、「信仰は自由だ。深入りするな」と言う親の反対を押し切り、トランク一つで家を出て行ったのです。東大生の我が家の希望が出て行ってしまったのです。
 そして、一年ほどして私の会社が倒産。
 もう一つ。三男は兄貴と違って今流の子供で、他の大学に行きたかったのを、親の好みで無理に学習院大学に入れたのです。ところが、夏休みの運動部の合宿から帰ってくると家出してしまったのです。私たちは狂ったように盛り場などを探し歩きましたが、親の知らない所で子供が生きているという物凄いショック。
 私の人生で、これはと拠り所にしていたことが皆、ぱあになってしまいました。振り返って俺の人生の目標は一体何か、俺の拠り所は一体何だったのかと考えてみたら、「空の空」なんです。
 私は東京農大を卒業後、ビール製造会社に就職し、二十数年技術屋として酒造りに打ち込んできました。一生懸命、会社の中で働いて良い発見をするとか、昇給・昇進・社会的地位や名誉を得るとか、子供が良い学校に上がるとか。それらを生きがいにしていました。そして、それらが全く何の頼りにならないものと、この経験を通してわかったのです。
 「自分で生み育てた子供の心を理解できない父親。悩んでいる妻を慰められない夫。人生の目標を見失った人間、それは俺だ」という状況の中で、長男の中学からの親友M君のお母さんから、意外な報せを受けたのです。東大を出て一流会社に勤め婚約者も決まり、周囲のみんなから前途を望まれていたM君が自殺したというのです。内の息子は就職もせずに神学校なんかに行ってしまい、人生の敗残者のコースをたどるのかと思うと悔しくて悔しくて。それに比べて順調なコースを行くM君がとても羨ましかったのです。人生に息詰まって死ぬのならわかりますが、エリートの前途洋々の青年が死を選ぶとは一体どういうことなのだろう。もの凄いショックでした。
 「死とは何か、生とは何か」と考えていくうちに、こんな重大な人生の根本問題に五十一歳にもなって、全く無知な自分に愕然としました。それで長男をとらえたキリストにこの解決があるのではないかと、ともかく教会に行ったのです。 

 この方は、求めていた答えを見出だされ、クリスチャンとなられました。




お招き 2 「自分を生きるために」・・・・目次へ

「自分を生きる」とは?
 実は、その問いの意味はとても深いかもしれません。「生きる」とはただ存在しているというものではないでしょう。自分の価値と生きる喜びを見出し、人生の意義と目的を達成しようとする人生、それが「自分を生きる」人生と思います。

 誰もが持つ「3つの疑問点」
イ: 「私はどこから来たのか?
 ・・・母親の胎から生まれ出たということでなく、「私という人間が存在するに至ったのは何故か」という存在そのものに対する素朴な問い掛けです。
ロ: 「今、私は何をすればいいのか?
 ・・・「人生の目的」を問います。
ハ: 「死後、どこに行くのか?
 ・・・「死後
について問います。

 この3つの問いに答えられず、本当に悔いのない人生、終わりのない真実に楽しみのある人生を生きることができるでしょうか。果たして、「人生の意味・目的」がわかるでしょうか。大きな問題が人生に起った時に、そのような人生を生きていなかったこと、わかっていなかったことを思い知らされます。以下の、ある男性の証言の中にそれを見ます。


 3つの問いへの答えがわからないとき、どうすれば良いのか?
 まず、なぜわからなくなったのかその理由をはっきり知る必要があります。その理由は、私たちが、私たちの命と人生の創造者なる真の神を否定し、自分中心に生きるようになったから、と聖書は語ります。神を知らず求めず生き、生き方の根源になる部分がわからなくなってきているのです。
 そこで、神を知らず求めないで生きてきたことを認め、神様に立ち帰る必要があります。そして、神中心に生きると心定めた時、神を信じない人が神を信じる者にされているのです。

 生き方を変えたときに、3つの問いの答えがわかってくる。
イ. 「私はどこから来たのか?
 天地万物を造られた神様によって創造され、一人一人が価値ある命を与えられて、生きるようになりました。「尊い、神に愛されている存在」ということが分かってきます。
ロ. 「何のために生きるのか」
 「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第一コリント10章31節)
 それは神の栄光のため。年若くても、お年寄りでも、体が強くても弱くても、病気でも健康でも、どんな人、誰でも、その生涯を用いて神の栄光のために生きることができるということがわかります。そして、この生き方が「喜び、平安、満足と充実」の人生だ、とわかります。
ハ. 「では、どこに行くのか?」
 地上の生涯を終えた時、神様が天国に入れて下さり、永遠に生きる者とされるのです。

 神を認めて生きる時に..
1) 私を愛し受け入れ、救い、導いて下さっている神様がいつも共におられるから、人生が楽しくなります。
2) 「本気でどんな小さなことでも神の栄光のためにする」ので、いい加減な人生を歩みません。
 そのように生きて、神様のためにしたことは全部評価され、天国にて豊かな報いとなって返ってきます。それが、主のお約束です。
3) 人生には意味があり、それをわかって生きているので、後悔がありません。
 神が共にあって導いて下さっているから、そして、出来事の一つ一つに意味があることをわかっているから後悔はないのです。
4) 人生のゴールは天国です。
 これがわかっているので勇気をもって生きることができ安心です。心配することはありません。 

 このような生き方をする時、「生きる」とはただ存在しているというものではなく、自分の価値と生きる喜びを見出し、人生の意義と目的を達成しようと自分を生きる人生に入られることでしょう。
 教会の敷居は決して高くはありません。まずはお越し頂いて、神の御言葉聖書から「自分を生きる」ことを真剣に考えてみませんか?
心からの歓迎を用意して、お待ち申し上げます。




お招き 3 「生きる意味を求めて」・・・・目次へ

「すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」
(新約聖書 マタイ福音書 11章 28-29節)


 人は明日への希望がなければ生きることはできません。幼い子供でも生きる望み、将来への希望を失えば、自らの命を断ってしまいます。
 幼い子供たちの自殺は、年々増加傾向にあります。その真の理由は、望みが断たれてしまうことであり、周囲が彼らに希望を与えることができなかったことによります。
 では、人にはどんな希望が必要なのでしょうか。

 第一に、生きる意味と目的への希望が必要です。
 「人生は、私たちが人生とは何かを知る前に、もう半分過ぎている」と、ある詩人は言いました。夢中で生きて、「人生とは」と考え始めた時にはもう半分過ぎてしまっているとの実感が溢れています。
 聖書は、人の生きる目的は「神を知ること、神を喜ぶこと、そして神の喜ばれる道を歩むこと」と教えます。真の神を知ることは、人に真の生きる望みを与えます。なぜなら、天と地を創造された真の神は人を創造され、これを愛し、一人一人固有の人生を計画され、大きく期待しておられるからです。
 どんなことでも、目的を持たないことは空しいことではありませんか。学ぶことにも、働くことにも、遊ぶことにおいても、目的がなければやりがいを失ってしまいます。目的を持たず大きな犠牲を払っても、やがて味わうことは失望と落胆ではないでしょうか。
 ある青年が「何のために勉強するのかわからない」と悩んでいました。
 「何のために勉強するの?」 「いい会社に入るためです」
 「それから?」 「いい給料を貰います」
 「それから?」 「美しい女性と結婚します」
 「それから?」 「出世します」
 「それから?」 「悠々とした老後を迎えます」
 「それから?」 「…」
 お墓が人生のゴールではないはずです。
 その青年は、聖書に触れキリストの愛を知った時、人は神によって造られ、この神のみこころを知り神の喜ばれる人生を送ることが人生の目的であって、決してお墓が最終ゴールではないことを知りました。そして、学びにも将来にも真剣に打ち込めるようになり、充実した喜びの人生に入りました。
 生きることは、多くの戦いがありますが、決して苦しい希望のない日々ではなく、神によって期待されている人生だということを知り、精一杯その期待に応えていくことができるのです。

 第二に、人生の問題の解決への希望が必要です。
 「人生は一冊の書物に似ている。馬鹿者たちは、それをぺらぺらとめくっていくが、賢い人間は、念入りに読む。なぜなら、彼はただ一度しか、それを読むことができないことを知っているから」と、ある小説家が言いました。
 人生の苦しみの意味がわからなければ、苦しみを避けて通ろうとします。しかし、苦しみ悲しみなどの源となる様々な問題は、常に人の歩みにつきまとい、最終的には、別離の悲しみがやってきます。
 それでは、私たちの人生に起こる様々な問題は、いかに解決できるのでしょうか。それは、「道であり真理であり命である」イエス・キリストを知ることです。キリストの中にあらゆる問題の解決があります。

 イエス・キリストは十字架で死なれた後三日目に、死に勝利して復活されました。

 この生けるキリストにあってあらゆる問題に雄々しくぶつかっていくことができます。イエスキリストは、私たちが誰であっても、どのようであっても、いつでも私たちを受け入れて下さり、私たちの存在を喜んで下さいます。
 人はいつも、自らの心の叫びを聞いて下さり受け入れて下さる方を求めてはいないでしょうか。
 イエス・キリストは、招いておられます。
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
  あなたがたを休ませてあげよう。
  わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、
  わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」
   (マタイ11:28-29)

 人が苦しみを理解できないのは、人の内にある罪にその原因があります。
 罪とは、神を知らず、神のみこころから外れた的外れな生活を送っていることです。人はこの罪のため、死と永遠の滅びに定められているばかりでなく、生きているこの時も、不安や悲しみなど様々な問題を自らにもたらせているのです。
 神は人の問題の根源である罪の解決のため、神ご自身が人の形をとられ、この世に来て下さったのです。そして、十字架にかかられ、人の罪の罰の身代わりとなって死んで下さったのです。この十字架は、神の私たちへの無条件の愛を証ししております。この十字架にこそ、私たちの問題の解決があります。人がキリストのもとに行く時、人生の様々な問題の解決が与えられます。

 もし、あなたが、このキリストのもとに真剣に求めて来られるなら、必ず希望のある生活を送ることができるようになります。




お招き 4 「家庭と学校と教会がともに!」・・・・目次へ

 「
本当に日本の教育はどうなっているのか」という不安の声をよく聞きます。その問題の根底が見えず、危機感さえ覚えます。

 
教育の背景には社会があります。科学技術の時代、人の価値が数字で表され得るかのように錯覚し、その結果、数字化され得ない豊かな感性が切り捨てられています。そのために、心に空しさ、生き苦しさ、精神的飢えと渇きを覚えます。人が人としてふさわしく認められず、あたかも「モノ」のように扱われます。そのように扱われた人は他者を同じように扱い、そして自己と他者の命の重さを見失い、自暴自棄、いじめ、驚くべき行為へと進むのではないでしょうか。

 
教育基本法の第1条に、教育の目的は人格の完成とあり、第9条では公立学校での宗教教育その他宗教活動について記されています。戦後の公教育から宗教教育は排除されてきました。欧米、アジア諸外国とは異なり、宗教教育の欠如は、日本の教育の特徴となっています。しかし、それは教育に宗教教育が要らないということではないはずです。

 
もし、宗教教育がなかったら、どんなことになるのでしょうか? 1980年代末期から1990年代中期にかけての大惨事「オウム真理教事件」でのオウム信者の書いた手記から、彼らが人間の精神性や宗教性を考える教育をほとんど受けていない、と感じました。科学技術や物質文化から生きがいや価値が得られないからといって、多くの若者がオカルト宗教にいきなりいってしまうというような、宗教オンチがとんでもないかたちで出てしまいました。

 
倫理道徳を支える価値観の基盤となる、人の生きる意味と目的、人の真の価値、人間存在の問いへの答え、善悪の基準などは宗教教育によってなされてきました。それらが欠落した教育で、どうして人格教育と言えるでしょうか?

 
教育といっても学校教育のみならず、家庭教育、社会教育など幅のひろいものです。「宗教色を出すなという宗教」を克服して、学校においても、家庭においても、真の人格教育を共に、目指したいのです。

 
聖書は「主を恐れることは知恵、知識のはじめである」と語ります。恐れるとは、「畏敬」という意味です。主とは天と地そして人をも創造された神です。聖書には、神のご意志により創造された全てのもの、当然ながら大人も子供も、一人一人その存在そのものに豊かな意味と価値があると書かれています。人生への確信と信念も備えられおり、善悪の基準も定められています。人生の目的も明らかにされています。

 
生きておられる聖書の神は、私たちとの個人的な生きた関わりを持とうと、「わたしのあなた」と語りかけられ、私たちはその語りかけに応答します。そして、「命のふれあいの素晴らしさ」を知るのです。この神との関係が回復されない限り、真の自己は見出せず、望まれる人格も完成されない、と考えます。

 
ですから、家庭と学校と教会がともに、人格教育に関わるべきという視点をお伝えしたいのです。




お招き 5 「いのち与えることば」・・・・目次へ

  イエスは答えて言われた。
 「『人はパンだけで生きるのではなく、
   神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
    (新約聖書 マタイ福音書 4章 4節)


 
たいへん有名な聖書のおことばです。
 人が人らしく生きるには食物だけでなく、神のことばがどうしても必要と教えます。肉体だけでなく精神、霊性を有するからです。
 私たちの日常生活でも言葉は非常に重要なものです。人とのコミュニケーションは、話すことによって、その大部分が成立しますし、一つの言葉で人生に喜怒哀楽、さらに希望を見出す経験を積み重ねます。言葉には「言霊(ことだま)」があると考えられてきましたが、確かに人は言葉に反応します。ですから言葉は、語る本人のみならず聞く方にも大きな影響を与えます。
 人は心に描くものによって行動が決められると言われます。ある心理学者の調査によると、人が一日に語る言葉のうちその80パーセント以上が否定的、消極的なものでした。「ああ、・・・だからだめなんだ」というふうにです。そうではなく、肯定的、積極的な思いで心に描き、それが言葉に表されていくとき心の内に健康的な確信が生まれます。そのような言葉はあなた自身を肯定的に変えるばかりでなく、必ずまわりをも変えていきます。言葉には力があります。
 言葉は独り(ひとり)言(ごと)ではなく、相手のいることですから、自分の語った一言ひとことが相手にどのような影響を与えるかを考えなければなりません。聖書は「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ人への手紙4章29節)と教えています。

 
善きものを育む言葉を語りたい
自分の心の思いをコントロールすることはむずかしいかもしれません。しかし、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という品性豊かな言葉を選びたいものです。そうすれば聞く人の心に必ずや善きものを生み出すでしょう。

 
口から出た言葉は消せない
「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る(箴言13章3節)」と聖書は語ります。

 
思慮(しりょ)深い話し手となるために
 第一に、悪いことばを出さないように心を使うことです。口に見張りを置くことです。人の陰口やうわさ、汚いことばや話題など、ひとも自分も不愉快になり心が沈みます。
 夫は妻に「愛のある言葉」を、妻は夫に「尊敬のある言葉」を語りかけるときに会話だけでなく夫婦関係もいのちある生き生きとしたものに変わります。そして、家庭も変わります。
 第二に、語るより聞くことに心を向けることです。そうすれば、上手な会話のできる人となるでしょう。
 第三に、相手の立場やその場の雰囲気を理解して語るとき、心地よい会話となるでしょう。無思慮にことばを出さず、ことばを選ぶ必要があります。慎みのある会話は品性を感じさせます。
 言葉は人の内から出てくるものですから、内なる問題が解決されることが必要です。そのためにどうしても、いのち与える神の聖言・聖書に聞く必要があります。

 
教会にいらっしゃいませんか。




お招き 6 「今だから… 「家族」を考えてみたい」・・・・目次へ

 「
本屋さんの店頭をながめていると、「本当の自分を見つける」とか「自分を生きる」とか「快適な人生を歩む」といった本をよく見かけます。人々の関心が「人間とは?」「生きるとは?」という根本的なことがらに向いているからでしょう。このことがらに対して、「夫・妻、夫婦として」、「父親・母親、親として」、「親子として」、さらには「男性・女性として」、そして「人間として」という視点で考えてみたいと思います。

 
人が最も安らぎを得ることのできるはずの家庭。私たち人間にとって最も基本的な人間関係の場であり、居心地の良い場所であるべき家庭が、今、危険にさらされているように思えます。愛のある、喜びのある家庭の存在があったなら、私たちの周りに生じてこないだろう問題はたくさんあると考えておられる方も多いでしょう。

 
「いじめ」や「虐待」、「自死」...。これらの問題の根底にあるものは何なのでしょう? 愛されているという確信の欠如、自分をありのままを受け容れることのできない自分、そこから来る不安と怒りであるかもしれません。今まで知らず知らずの内に刷り込まれていた、自分自身に対する誤った価値観で生きてきたので自らの真の価値を見出せなくなっているからかもしれません。真剣に考えなければならない事柄です、夫として妻として、父親として母親として、男として女として、人として。

 
「愛と喜び」「真の自分」「生きる意味」「悔いのない人生」...。これらは死語なのでしょうか? 決してそうではありません。それらの基盤となる「家族のあり方」を、共に学び分かち合いたいと思います。私たちの置かれている家庭の重要性を見つめたく願っています。今、「家族」についてともに考えてみませんか。

 
学びの土台は「聖書」ですが、他宗教の方も、信心を持っておられるおられないに関わらず、どうぞ。