教会へのお招き

<目次>
1.「私が教会の門を叩いたわけ - 人生の嵐の中で」
2.「自分を生きるために」
3.「生きる意味を求めて」
4.「家庭と学校と教会がともに!」
5.「いのち与えることば」
6.「今だから…、家族を考えたい」

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お招き 4 「家庭と学校と教会がともに!」

 「
本当に日本の教育はどうなっているのか」という不安の声をよく聞きます。その問題の根底が見えず、危機感さえ覚えます。

 
教育の背景には社会があります。科学技術の時代、人の価値が数字で表され得るかのように錯覚し、その結果、数字化され得ない豊かな感性が切り捨てられています。そのために、心に空しさ、生き苦しさ、精神的飢えと渇きを覚えます。人が人としてふさわしく認められず、あたかも「モノ」のように扱われます。そのように扱われた人は他者を同じように扱い、そして自己と他者の命の重さを見失い、自暴自棄、いじめ、驚くべき行為へと進むのではないでしょうか。

 
教育基本法の第1条に、教育の目的は人格の完成とあり、第9条では公立学校での宗教教育その他宗教活動について記されています。戦後の公教育から宗教教育は排除されてきました。欧米、アジア諸外国とは異なり、宗教教育の欠如は、日本の教育の特徴となっています。しかし、それは教育に宗教教育が要らないということではないはずです。

 
もし、宗教教育がなかったら、どんなことになるのでしょうか? 1980年代末期から1990年代中期にかけての大惨事「オウム真理教事件」でのオウム信者の書いた手記から、彼らが人間の精神性や宗教性を考える教育をほとんど受けていない、と感じました。科学技術や物質文化から生きがいや価値が得られないからといって、多くの若者がオカルト宗教にいきなりいってしまうというような、宗教オンチがとんでもないかたちで出てしまいました。

 
倫理道徳を支える価値観の基盤となる、人の生きる意味と目的、人の真の価値、人間存在の問いへの答え、善悪の基準などは宗教教育によってなされてきました。それらが欠落した教育で、どうして人格教育と言えるでしょうか?

 
教育といっても学校教育のみならず、家庭教育、社会教育など幅のひろいものです。「宗教色を出すなという宗教」を克服して、学校においても、家庭においても、真の人格教育を共に、目指したいのです。

 
聖書は「主を恐れることは知恵、知識のはじめである」と語ります。恐れるとは、「畏敬」という意味です。主とは天と地そして人をも創造された神です。聖書には、神のご意志により創造された全てのもの、当然ながら大人も子供も、一人一人その存在そのものに豊かな意味と価値があると書かれています。人生への確信と信念も備えられおり、善悪の基準も定められています。人生の目的も明らかにされています。

 
生きておられる聖書の神は、私たちとの個人的な生きた関わりを持とうと、「わたしのあなた」と語りかけられ、私たちはその語りかけに応答します。そして、「命のふれあいの素晴らしさ」を知るのです。この神との関係が回復されない限り、真の自己は見出せず、望まれる人格も完成されない、と考えます。

 
ですから、家庭と学校と教会がともに、人格教育に関わるべきという視点をお伝えしたいのです。