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香柏

     主は私の

田照一伝道師
              

2015年10月18日
詩篇23・1〜6/伝道礼拝

ダビデはイスラエルの王であり、詩篇に多く採用されている歌い手でもある。詩篇は基本的に、神様に向けられた祈りと賛美である。このダビデは、最初は羊飼いであった(照:一サムエル16章〜)。ダビデはこの詩篇において、自分を羊としてとらえ、そして主は自分の羊飼いであるとしている。この詩篇が読まれた背景は、イスラエルの自然の中の羊飼いである。羊飼いは危険を伴っても羊を外敵から守り、注意深く配慮し、食を満たして飢えや渇きのないように心がけている。

イスラエルの地理と気候は、季節によっても地域によってもまったく異なる。羊は必ず何かの守りがなければ、導きがなければ、生きていけない。ダビデは、羊のことをよく知っていた。羊のために心を砕いて、世話をしていた。その彼が、神様を羊飼いであるとし、自分はその方の羊であるという。3節、羊は自分勝手に、道をそれて行く。そうした迷える羊を、主ご自身が、ご自身の道に導かれる。4節、ダビデは実際に、「死」を何度か意識したであろう。死の陰の谷を一人で歩んでいたとしても、主が私とともにおられること、主は私の羊飼いであられ、必ずそばにいてくださっている。そこに彼の信頼がある。むちと杖は、羊を正しい道へ導くために必要である。羊は羊飼いが導いてくださった一つ一つのことから、慰めを得、常にともにいてくださることを理解する。5節、神様は、エジプトから導き出された民に、荒野の中でも食事を備えてくださる(照:出エジプト16:12ほか)。困難や危険に直面していても、必要を満たしてくださる。ダビデは、実際に頭に油を注がれた(照:一サムエル16:13)。特別にその者に恵みを注がれた。彼は自分を器に例えると、あふれているという。6節、彼は、いつまでも主から離れずに歩むことに喜びを得ている。

ダビデは大変優れた王であった。しかしその王であっても、自分を羊飼いとしてでなく、羊としている。一方私たちは、羊飼いとして来られた方を知っている。イエス様は、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われる(照:マタイ9:36・マルコ6:34)。迷った一匹を捜しに出かけ、この一匹を喜ばれる(照:マタイ18:12〜13・ルカ15:4〜7)。自分の羊をその名で呼んで連れ出される(照:ヨハネ10:3)。ご自身の羊のためにいのちを捨てる(照:ヨハネ10:11)。ご自身の所有とされる羊のことをよく知っておられる(照:ヨハネ10:14)。

このようにイエス様は羊飼いとして、羊のためにいのちを捨てられ、私たちの罪を贖われ、永遠のいのちを与えてくださる(照:ヨハネ10:28)。聖書を通して神様が私たちに語りかけているのは、私たち一人ひとりが羊であり、羊飼いである神様の存在を受け入れて歩むことである。そのことを受け入れ、ぜひイエス様が私の救い主であり、導き手であることにあって、歩みをすすめたい。


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