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香柏

     神の国とその義とを

田照一伝道師

2016年1月10日
マタイ6・25〜34/伝道礼拝

本日の箇所は、イエス様が説教なさっている一部である。5章から始まるこの説教は、「山上の説教」と言われる。大勢の群衆、そして弟子たちに対して山上の説教が行われた。「天の御国」が何度も語られている。

25節、「だから」と始まる。前の文を受けている。それは「ふたりの主人に仕えることはできない」すなわち神様と富の両方に仕えることはできないことを指している。どうして「だから」なのか。6章で中心に言われているのは、神様に向かい合うことにより、外面でなく心を見られている、ということである。イエス様は空腹を覚える身で、悪魔の試みを受けられた。いのちとからだの必要、そして人間が富ミ栄華ミに弱いこともご存知である。人間の必要は容易に欲望となり、気がつけば人は「富」に仕えることとなる(照マタイ4章)。

イエス様は何度も、「心配するな」と言われる。それらがいのちを少しでも延ばすのか、からだを装うのか、と問いかけられる。いのちの起源は、どこにあるのか。自分で延ばすことのできるのか。からだに身に着けるものは、神が、造られたものに備えておられるのではないか。それは、心配するならば本質的なことに心を向けることを教えられている。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」このみことばは、キリスト者の証しでもよく用いられる。それは「何を食べるか」「何を飲むか」「何を着るか」ということだけでない。「それがみなあなたがたに必要であること」を、神様に求めた時に思い至る。では、イエス様を信じておらずとも必要が満たされているならば、人はどうなのであろうか。人はたとえ物質的に満たされていようとも、霊的には自分を造られた神様から覚えられていない、貧しいものである。神様の前にあっては、何も持っていない、むしろ自らの罪にあって莫大な負債を抱えている。地上で権威を持つ存在を恐れるよりも、「たましいもからだもともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を」(照マタイ10・28)恐れなければならない。そしてイエス・キリストは神様の命を受け、十字架にお架かりになることによって、私たちの底知れぬ罪を、ただ一度で贖われ、私たちの莫大な負債を帳消しにしてくださった。この方が、私たちの必要を知ってくださり、「主の祈り」を教えてくださっている(照マタイ6・9〜14)。

どうして「神の国とその義」がまず第一なのか。このことが、私たちのいのちとからだにとって不可欠であり、これを第一とすることによって、何が私たちの必要を満たしてくださるのかが、明確になる。「だから」私たちの生活が、このことを第一としていくならば、振り返ってみると、「そうすれば、それに加えて」確かに必要なことは満たされていた、ということに気づく。私たちの生活は物質的に恵まれている。それはそれぞれの置かれたところで、必死に生活を送っている結果であろう。しかしその一方で、日々の生活の必要以上の欲望に気づこうとせず、更に多くの物事を追い求めている。第一とすることが「神の国とその義」であるなら、私たちはその日その日にあって、十分に労苦に直面する。そのような日々を、聖書を手にして祈りもって歩むこと。イエス・キリストを救い主として受け入れて歩むこと。そのことを通して私たちは、「神の国とその義」が、実は私たちの身近にあること(照ルカ17・21)を知るのである。


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