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香柏

     いのちのパン

森山健也牧師

2016年2月7日
ヨハネ6・35〜40/主日聖餐礼拝

パンは私たちの生命を支え養うものです。ですから私たちは主が教えられたように「日毎の糧・パンを今日も与え給え」(マタイ6・11)と祈ります。またイエスは「人はパンのみによりて生くるにあらず・・・・・・」(マタイ4・4)と仰言り、私たちにとり最後の拠り所はパンではなく、パンを与えられる神である、と諭されました。その主イエスがここで「わたしがいのちのパンである」と仰言います。

ヨハネ伝6章は、五つのパンと二匹の魚≠もって、主イエスが五千人を養われた奇蹟に始まります。人々が王にしようとしていることを知り、イエスはひとり山に退かれます。翌日、人々はカペナウム近在におられるイエスを見つけます。その人々に、イエスが「なくなってしまう食物のためではなく、いつまでもなくならず、永遠のいのちに至らせる食物のために働きなさい。それこそ人の子があなたがたに与えるものです」と言われると、人々は「神の業を行うには何をすればよいのですか」と尋ねます。主は答えられます。「神が遣わされた者を信じること、これが神の業です」。そこで彼らは「それでは私たちが見て、あなたを信じるために、あなたはどんな徴(しるし)を行ってくれますか・・・・・・」と言います。イエスが「わたしの父が、天からのまことのパン、天から降って来て、世にいのちを与える神のパンをお与えになる」と言われると、人々はイエスに向って「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」(照4・13〜15)と言います(照26〜34)。

するとイエスは「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者=わたしを信じる者=父がわたしにお与えになる者(照マタイ16・16〜17、Tコリント12・3)は、決して飢えることがなく、決して渇くことがない」と確言されます。そして、人々が「わたしを見ながら信じようとしない」のは、パンの奇蹟を見ながら、ただパンを食べて満足したからです、と人々が自分の腹・利益のために、肉の目で表面しか見ず、イエスとその事柄を深く見分け、確かめ、洞察する信仰の目を持たなかったからです、と言われます。一方、子を見て、「天からのまことのパン」「いのちのパン」であると父により信じ、「わたしの所に来る者=永遠のいのちを持つ者を、わたしはひとりとして捨てず、すべての者をひとりも失うことをなく、終りの日に復活させます。それがわたしをお遣わしになった父の御旨であり、そのために、わたしは天から降って来た」と主イエスは仰います(35〜40)。

「いのちのパン」であるイエスの十字架の救いの中に保たれ、終わりの日に復活を約束されている私たちですが、なお荒野の如きこの世界に生きています。それゆえ私たちは、絶えず神の愛の徴(しるし)である十字架、私の罪の赦しのために、私に代ってそこに死んでくださったイエス・キリストを仰ぎつつ、その許を離れ去ることなく、「いのちのパン」であるイエスを食しつつ、信仰の旅を続けてまいりたい、と切に祈り、願います(照66/ローマ8・33〜39)。


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