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香柏

     待ち望め、御顔の救いを

森山健也牧師

2016年2月21日
詩篇42・1〜11

説教題は「神を待ち望め。御顔の救いを」(5)に依ります。42篇と43篇は本来は同じ折り返し句(5、11、43・5)を持つ三つの部から成る一つの詩篇であったと言われます(43篇には表題なし)。かつては祭りを祝う群衆と共に、喜びと感謝の讃美の声の中に、エルサレムの神殿に詣で、礼拝を捧げた日々を思い出し、御前に行って御顔を仰ぐのはいつの日だろうか、と詩人は嘆きます。それは今、詩人がエルサレムから遠く隔てた「ヨルダン(下る=jとヘルモン(アラビア語で現在は老人の山=j、またミツァル(小さな丘?<_ンの丘?)の異教の地にあって、重い病気か何か不幸な出来事のゆえに、人々から絶え間なく、骨も砕かれんばかりに虐げられ「お前の神はどこにいるのか」と嘲られているからです。そうしたあなたの大滝の轟き、その深淵にあって大波に翻弄されて、神に忘れ去られた≠謔、な状況の中で、詩人は昼も夜も涙を流し、鹿が涸れた谷川の水を求めるように、渇いた詩人の魂(プシュケー・喉)は生ける神を慕い喘いでいるのです。「お前の神はどこにいるのか」との言葉は、神の存在を問う言葉ではなく、神の働きを問う言葉である。詩人はお前の神は現実に生きて働いていないではないか、と嘲笑されているのです=i左近淑/考バビロン捕囚のユダヤ人。キリスト教と御利益神。キリスト者として、この国で=j。

霊的な苦境の中で、不安や孤独に押し潰されそうになり、しおれ、うなだれ、思い乱れている詩人は、自分に問いかけます。「わが魂よ、なぜ、お前は絶望しているのか。呻いているのか」と。そして自ら「神を待ち望め、私はなおも(この言葉はにも拘らず≠表わす)神を頌め讃える。御顔の救いを」と言います(5、11、43・5)。この後半部を新共同訳は、「私はなお告白しよう。『御顔こそ、私の救い』と。私の神よ」と訳しています。詩人が私をお忘れになったのですか≠ニ訴えるほどの絶望的な状況の中で、なおも「我なおわが顔の助けなるわが神を頌め讃うべければなり」(文語訳/交読文)と、信仰する神を讃美・告白できたのは、詩人が神に訴え祈ることを通して神からの声・聖霊の細き声を聞き、神を待ち望み、希望に生きる信仰を回復されたからでしょう。

それゆえ、詩人は神を頌め讃えつつ神を待ち望め、御顔の救いを≠ニ明確に、力強く歌います。顔は羞恥、怒り、悲しみ、喜び等の様々な感情を映し出します。顔は人間の最も個性的な部分として、人間の人格・全存在を標示します=i照イエスは御顔をエルサレムに向けて進んだ<泣J9・53/聖書大辞典)。御顔の救いを待ち望む≠ニは、私の救いなる神を信じ仰ぐことです。そのために私たちがすることは、私を取り巻く罪と状況に絶望し、うなだれることではなく、私の救い主なるイエス・キリストを信じ仰ぐことです。この救いの神の言葉を聞いて、カインのように「顔を伏せ」てはなりません(創世記4・1〜8)。イスカリオテのユダになってはなりません(マタイ27・3〜5)。ペテロのように(ルカ22・54〜62)、強盗のように(ルカ23・39〜43)、パウロのように(使徒9・1〜6、Tテモテ1・15)、私の罪を赦すために、十字架に上げられた救い主キリストを仰ぎ、信じる者とされましょう。


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