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香柏

     イエスの死と葬り ― 安息日の前日に

森山健也牧師

2016年3月20日
マルコ15・22〜47/受難週主日礼拝/棕櫚の聖日

キリスト教の象徴(シンボル)は十字架です。そのことは主イエスの生涯・御業の核心は十字架の死にあったことを物語っています。

イエスをゴルゴダへと引いて行った人々は安息日の前日の午前9時に、二人の強盗と共にイエスを十字架につけた=i22〜27、42)。人々は十字架上のイエスを他人を救ったが、自分を救えない。キリスト、イスラエルの王よ。十字架から降りて自分を救ってみろ。それを見たら俺たちも信じてやろう≠ニ罵り嘲った(29〜32)。そして、昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時にイエスは大声で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。差し出された酸い葡萄酒を拒まれたイエスは大声をあげて息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。十字架の下に立ち、正面からイエスを見上げていたローマ軍の百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て「まことに、この方は神の子であった」と言った(33〜39)。

かつてバプテスマのヨハネが、来るべき方はあなたですか$qねさせた時、イエスは目の見えない人は見え・・・死人が生き返り、貧しい人は福音を告げられている≠ニ、ご自分が旧約に預言されている救い主であることのしるしを列挙された(照マタイ11・2〜6、イザヤ35・5〜6、61・1〜2)。他人を救ったイエスは今、十字架から降りて自分を救うことをされない。自身のためには奇蹟を行なわないで、御父の御意思に服従される(考ルカ4・1〜13、荒野の試み/ルカ22・39〜43、ゲッセマネの祈り)。そして大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫び、息絶えられた。

その生涯の極致、十字架につけられたイエスは奇蹟も行わず、自分のために何もされない。そして御父から見捨てられ、死んでいかれたのである。

しかし、「その時」二つの事が起こった。(1)「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。(2)「十字架の下、その正面に立っていた百人隊長は「まことに、この方は神の子であった」と言った」。(2)神と人を隔てるためにモーセ即ち旧約によって設けられていた神殿・聖所の幕が、神御自身により、上から下まで真っ二つに裂かれたこと(エスキステー/神的受動態)は、父のみこころに従って、イエス・キリストの体がただ一度だけ献げられたことによって、旧約(時代)の祭儀は廃止され、新約(時代)の礼拝が始まったことを示している(照ヘブル10・9〜10)。(2)この新約の礼拝を最初に捧げたのは異邦人の百人隊長であった。彼は、十字架から降りず、自分を救おうとせず、神から見捨てられて、大声をあげ息を引き取ったイエスを仰ぎ見てまことに、この人こそ唯一の神の御子キリストであった≠ニ信仰を告白したのである。

受難週の主日礼拝の今朝、私たちのすることは十字架の主を仰ぐこと≠ナす。そして、そこに私たちの罪のために、十字架につけられたイエス・キリストをはっきりと認め、その主イエスの御業に信頼し、讃美と感謝の礼拝を捧げることです(照ガラテヤ3・1、Tコリント1・23〜24)。


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