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香柏

     主の御腕は誰に現われたか

森山健也牧師

イザヤ書53:1〜12/聖餐礼拝

 イザヤ書53章は?苦難の僕の歌?と言われています。説教題は1節後半「主の御腕はだれに現われたか」に基きます。イザヤはユダ王国・エルサレムにあって、前720年の前後50年余りにわたり預言しました。イザヤ書53章は同40章から語られてきたネブカドネザル王による?バビロン捕囚?からの解放・帰還(クロス王、前535年/第二の出エジプト)の預言の一部です。自分たちの罪のゆえに、祖国より遠く離れた異教の地で、民は苦しみ、神がその力を発揮し、働いてくださり、苦しみから解放してくださることを求めました(照51・9?10)。そうした状況の下にある人々に、イザヤは神がなさろうとすることを語ります。

 主の御腕は、これまで誰も聞きもせず、思いもしなかった苦難の僕において現わされた、とイザヤは驚き、預言します(1)。苦難の僕には「私たちの見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見映えもない」(2/照ヨセフ、ダビデ)。そのような僕に神の働き、力が現わされているのです。また彼は蔑まれ、人々から除け者にされます。かれは孤独です。孤独な彼にこそ、苦しみの中にある人を救う力があるのです。苦難の僕イエスは、自分の罪ゆえに苦しむ孤独な人、また不条理な苦しみの中で誰からも理解されない人に寄り添い、救ってくださるのです(2?3/ダビデ、ヨブ、ザアカイ)。

 苦難の僕が除け者にされたのは、人々から嫌われる私たちの病い・痛み・咎・罪を負ったからです。彼はその苦しみの中で、ほふり場に行く小羊のように口を開かず、私たちの罪のために刺し通され、取り去られ、悪者どもと共に墓に葬られるのです。私たちはその様を見て、完全に誤解しました。?彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。一体、だれが思っただろうか。彼がその民の罪のために打たれ、葬られたと?(4?9)。

 暴虐をなさず、口に偽りなかったこの僕を「砕いて、痛めることは、主のみこころであった」(10)。「みこころ」とは御旨/目的とも訳される語で、?喜ぶ?という動詞に由来するという。罪なき神の小羊、独子イエスが十字架に付けられ、死ぬことを、神は喜び望まれたのです。十字架に砕かれる苦難の僕イエスに、「主の御腕」は現わされたのです。十字架の主イエスこそ、イザヤが預言した苦難の僕です。彼こそは、自分のいのちを死に明け渡し、多くの人の罪を負い、不義の者たちのためにとりなしをする救い主です。「いのちを死に明け渡す」とは、自分の命・魂を一滴残らず注ぎ出すことを言う。主イエスは、私たちの罪を赦すために、十字架上に、その血・いのちを注ぎ尽されたのです。それゆえ主は、聖餐式を定められたとき、「杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです』」(マタイ26・27)。


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