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香柏

     もし一つの部分が

高田伝道師

2016年7月17日
コリント人への手紙第一 12章14節〜27節

 からだは器官によって造りあげられる。様々な部品が組み合わさって、一つのからだをなしている。からだの部分がからだに属さない。部分だけで生きていけるのか。そもそも、からだの一部分として作られたのに、からだに属さないということができるのだろうか(ヨハネ15:5)。 先回の説教では、同じ御霊が働きかけてくださるのだということを見てきた。改めて12章4・5・6節を確認してみると、それぞれに与えられた個性や能力は、御霊の働きによる。賜物・奉仕・働きには、多くの種類がある。多くの種類に分かれているそれぞれは、御霊が分け与えたのであった。14節では、「確かに」と話を進める。何が「確かに」なのか。キリストのからだは、御霊によってキリストのそれぞれの器官とされた、ということであろう。一般的にキリストのからだは教会を、それぞれの器官はイエス・キリストを信じる者たちであると考えられる。私たちは教会の一つの部分を担う者である、という自覚をもってそれぞれが喜んで奉仕する。ところが15〜17節で、それぞれの器官が自分にない働きを挙げて、からだに属さないと言う。私たちは喜びをもってキリストのからだたる教会につなげられ、奉仕に携わる。しかし自分にはない他の器官の働きをうらやんで、自分の存在がからだにとって、大したものでないように判断する(15〜17節)。からだの器官がまるで、自分がからだであるかのように判断して、他の器官を否定している姿(21節)がある。そのどちらもが、からだの一部分がからだのように考え、判断し、行動する。神様は、どのように考えられているのか。神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださった。では、神様のみこころとは何であろうか。

 神様がみこころに従って建て上げられた教会の中に、比較的弱い部分がある。24節に「劣ったところ」とある。何かに欠けている、劣ったところのある器官がある。それは具体的にわからない。神様は、ロボットのような部品として私たちを造ろうとしたのではない。自分がからだであるかのように判断して、他の器官を否定する者をも、からだの一部として招いておられる。25節に「分裂」とある。キリストのからだとして深刻な状態である。比較的弱い器官が、劣ったところと見られているのが、キリストのからだが分裂するということを防ぐ。各部分が互いにいたわり合うことへと導く。キリストのからだにつなげられ、喜びに満たされる一方、からだに属することにしんどさや苦しさを覚えることがある。何のためにからだに属するのか。26・27節、比較的弱い器官や劣ったとみられるところは、人の働きと比較して落ち込むことや批判することがない、できない。そのような器官が苦しむ苦しみは、いかばかりの苦しみか。からだであるキリストも、ともに苦しまれる。また反対に、逆にその部分が尊いものとされたとされたならば、からだであるキリストはどれほど喜ばれることか。

「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにした」(マタイ25章40節)。神さまは最も小さい者をも覚えておいでである。すると弱い器官や劣ったところをも神様は覚えておられ、その苦しみや悩みをご存知である。キリストのからだたる他の器官が、弱い器官や劣ったところの苦しみをともにするならば、同じくそれぞれにある苦しみをもキリストは担われ、他の器官はともに苦しみを負い合う。神様はそのことを求めておられるのである。


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