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香柏

     確かに神は

高田伝道師

2016年9月4日
コリント人への手紙第一 14章20節〜25節

 本日の聖書箇所は、「兄弟たち」と呼びかけるところから始まる。コリントの手紙の最初の頃に何度も、「兄弟たち」と呼びかけられていた。そしてパウロは、同じ救いに預かった者にある敬意と親しみと恐れをもっている(12:1・14:6)。次にパウロは、御霊の賜物について深めて言う。御霊の賜物があり、様々な種類がある。そしてその御霊の賜物は、異言も含まれるがそのまま話すことでは教会の益とならないと教える。考え方では、おとなになるようにと勧める。子どものようであるべきことと、おとなとしてあるべきこととが述べられる。ものの考え方ではおとなでありなさい。その根拠は「律法にこう書いてあるから」とする。「律法」というのは旧約聖書全体を通して、「律法」と言っている。

 異言は信者のためのしるしではない。信じる者に対して異言は用いられなかった。預言はこれまでにこのように見てきた。それは教会の徳を高めるために、霊において知性においても互いに祈り・賛美・話すことと見てきた。では考え方においてはおとなになりなさいとは、どういうことだろうか。23節、ここで「もし」と言われる。まず教会全体が一ヶ所に集まることが述べられる。そこで二つのことが言われる。一つはみなが異言で話すこと、二つ目はみなが預言をすることである。教会で一ヶ所に集まることとは当然神さまを賛美する、祈ることであろう。つまり礼拝と考えればよいだろう。

 教会全体で異言が話される場合、異言で礼拝が行われる。事情をよく知らない人は、教会でされていることが全く理解できないだろう。もう一方はどうだろうか。「みなが預言をする」、それは教会で、霊において知性においても祈られ、賛美され、ことばが語られている中でのことを言っている。教会の徳が高められていく。教会員それぞれに与えられる賜物は様々である。さらに熱心に、自分のこととしてでなく教会のことを覚えて求めるなら、他の人の徳を高めて教会の徳を高める。そして同時に、そこに愛がなければならない。これまでともにみことばから見てきたのは、そういうことであった。しかし、どうして異言だけを話す教会とみなが預言をする教会だけ取り上げられるのだろうか。私たちの教会はどちらであろうか。私たちの礼拝はどのような礼拝であろうか。初心やイエス様を信じていない者の心に響くのは、教会で捧げる者たちの内に、いま確かに神は生きて働かれているということが感じられるからであろう。初心や信者でない者であっても、礼拝において自分は本当に正しい者だろうかと調べられ、心に隠していたことがあらわされる。そして確かにこの場に神がおられると悔いて改め、生きて働かれている神を拝することの喜びに思い至る。

 私たちは自分の満足のために礼拝を捧げるのではない。私たちは神様が、一方的に私たちをご自身の救いへと招き入れられた喜びを与えられている。そして神様が、今も生きて働かれていることを覚えている。そのお方を覚えて、心からの礼拝を共々に捧げたい。


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