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香柏

     眠った者の初穂

高田伝道師

2016年10月16日
コリント人への手紙第一 15章12節〜22節

 イエス様は人として死なれ、復活された。キリスト教が他の宗教と明確に異なるところであろう。ところが当時ギリシア地方では、肉体は墓であり牢獄である。死は牢獄である肉体から、魂を解放する。だから肉体をもって復活することはあり得ない、という考えがあったようだ。それも教会員においても見られた。15章でまず聖書の記述にあるとおり、旧約聖書の全体を通して、イエス様が私たちの罪、それは人間の罪のために死なれて、葬られて、よみがえられることを示した(ルカ24:45-47)。「ところで」と話を始める。どうして「死者の復活はない」という人々があなた方の中にあるのか。自分でクリスチャンであると思っていても、大変な思い違いをしている。キリストが復活されなかったとしたらどうなのか。「私たちの宣教は中身がなく」「信仰も中身がない」。更に、「神について偽証をした者」となるだろうという。キリストがよみがえったということは、神様が御子イエスを通して、罪ある者たちを救いに入れてくださった。イエス様がよみがえられたということは、死によって肉体が滅び、それで魂は解放されるということではない。イエス様は肉体の死によってご自身の民の魂を父なる神さまのもとに導いてくださり、この世の終わりを迎える時に神さまがなさることがある。

 17節、キリストのよみがえりは、肉体と魂の関係だけではない。人間の死は、罪によって引き起こされた(創世記3:22)。創世記3章に「罪」という言葉は出てこない。しかしアダムが行ったことは、その後の人類に神様と決定的な断絶に至らせた。そして人は死ぬ者となった(ローマ5:12)。すなわち、私たちは意識して意識せずしても自分自身のしたいようにし、神さまに背く性質を持つ者となった。その結果は、死である。私たちはこの世で生き、罪の性質を持った者として、他人を、自分を傷つけ傷つけられて歩んでいる。罪は至る所にあり、私たちは罪に言いように振り回されて、罪の奴隷である。イエス様はそのような罪を負う私たちのために、ご自身を贖いの供え物となさった。罪のある人間は、自分自身の罪のために自分のいのちで贖うことが求められる。しかし他人のための贖いはできない。神様に供えるものとしては、罪ある者ではふさわしくないのだ。しかし罪を犯さない人間は誰一人いない。そこで神様は、ご自身のひとり子を世にお遣わしになったのである。

 イエス様を初穂と言う時、このようにおっしゃったことを思い出さないだろうか(ヨハネ12:24)。一粒の実は、豊かな実のために地に落ちて死ぬ。人は誰しも死ぬ。それは罪ある者なので肉体の死を迎える。それと同時に、生きている私たちも、罪のなわめから自由ではない。生きていては罪からは逃れられず、その結果として死に至る。そこに神様はご自身の御子を世に降らされて、人の罪を贖われた(ローマ6:23)。神様が賜物として、私たちを罪によるなわめから解き放つため、御子イエス様を世に送られ、世の罪の贖いとなさった。そしてイエス様は復活なさり、死に打ち勝たれたことを明らかにされた。死に打ち勝つとはすなわち、罪のなわめを解かれたということである。私たちは「眠った者の初穂」に続く者として歩ませて頂ける。そしてイエス様を信じる者は、永遠のいのちを持って歩むことができるのである(ヨハネ3:16)。


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